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<漢國神社祭神三座>

園神 大物主命
韓神 大己貴命 少彦名命

一、鎮座由来
当神社は推古天皇の元年二月三日(今より約千四百年前)、大神君白堤と申す方が、
勅を賜いて園神の神霊をお祭りせられ、其後元正天皇の養老元年十一月廿八日、
藤原不比等公が更に韓神の二座を相殿として祀られたのが漢國神社であります。
古くは春日率川坂岡社と称しました。

一、平安城宮内省へ勧請

清和天皇の貞観元年正月二十七日、
平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室の御守護神とせられたのであります。

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一、徳川家康公鎧と鎧蔵

慶長十九年十一月十五日、大坂陣の際、徳川家康公木津の戦に破れ当社境内の桶屋に落忍ばれ九死に一生を得給う。
依って報賽祈願の為翌十六日当社に御参拝、御召鎧一領を御奉納遊ばさる。
其後鎧蔵を建立し累世の将軍家は年々使者をお立てになりました。 (鎧は現今 国立奈良博物館に出陳中)

一、御神徳
御祭神は第一に国土経営の御大業をなされ、第二には国民の為に衣食住の根基を樹て給いし最も尊い神々で、
殊に医薬造酒の祖神でもあります。また、家康公に因み開運招福の霊験を崇ばれております。

一、林神社
林神社は、林浄因命を御祭神として御祀りする我国で唯一の「饅頭の社」であります。
林浄因命は中国浙江省の人、林和靖の末裔で、貞和五年に来朝され、漢國神社社頭に住まいされるや、
我国で最初に饅頭を御作りになり好評を博しました。
その後、足利将軍家を経て、遂には宮中に献上するに至り、今日全国の菓業界の信仰を集めています。
また、室町末期から桃山初期にかけて林家では碩学の林宗二が、
初期の国語辞書である「饅頭屋本節用集」を著し、印刷・出版の嚢祖として知られています。

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一、白雉塚

元正天皇は当社御崇敬の念厚く、養老五年四月に百済王が献上した白雉を当社へ御奉納遊ばされました。
其の後神亀元年九月十八日この雉を埋め、塚を築いたのであります。

<参考文献>
春日三枝神社
媛蹈鞴五十鈴媛命ナリ。社伝 小墾田宮御宇天皇ノ御世、
大三輪君白堤 勅ヲ承リテヨリ、社ヲ春日邑ノ率川・坂岡両処ニ立ツ。(下略)
『大三輪神三社鎮座次第』 新校群書類従 巻第十八

園韓神社三座

大神氏家牒ニ日ク、養老年中、藤原史亦 園韓神社ヲ建テ斎キ奉ル。
神名帳ニ云ク、宮内省ニ座ス神三座並名神大月次、
新嘗園神社一座、韓神社ニ座。旧記ニ云ク、件ノ神等ハ素盞烏尊ノ子孫ニシテ、疫ヲ守ル神ナリ。
伝ヘ聞ク、園神ハ、大己貴命ノ和魂大物主神ナリ。(中略)
韓神ハ、大己貴命、少彦名命ナリ。(下略)

『大倭神社註進状』 新校群書類従 巻第十八

率川坐大神神子神社 大和国添上郡子守ニ在リ
推古天皇御宇、大三輪君白堤、勅ヲ奉ジテ神殿ヲ率川邑ニ造リ、
五十鈴命ヲ奉斎ス。率川阪岡神ハ同ジク養老年中、右大臣藤原不比等、
益シテ神殿ヲ造リ奉ル。

『大国主命分身類社抄』

漢國神社

人皇三十三代 崇峻天皇六年癸丑春二月亥酉朔日、
春日里率川旧庭ニ於テ、社壇一所宮柱ヲ立テ安鎮シ奉ル。神躰ナリ。
養老元年丁巳朔日甲子 漢國社鎮壇 率川御門北面ノ内、蘭林坊艮ノ方、
三所宮桂太敷立テ安鎮シ奉ル。  神鉢 淡海(鎌足)公曽孫藤原是公建立ナリ。
人皇五十六代 清和天皇御宇 貞観元年春正月廿七日、平安城宮内省ニ薗神一座・韓神ニ座ヲ勧請ス。
此レ則チ当国漢國社ヲ大内裏ニ遷都ス。本位正四位、此ノ時一階ヲ加フ。

『元要記』

一、大祭 祈年祭二月二十三日、例祭十月十七日、新穀感謝祭十二月十二日

一、由緒祭 菖蒲祭六月五日、三枝祭六月十七日

一、境内神社 稲荷神社、八王子神社、葵神社・神石・林神社(饅頭の始祖)

一、宝物 徳川家康公鎧、志津三郎作太刀、広光作短刀、神印其他

一、建造物 本殿、拝殿、神饌所、神楽殿、鎧殿、手水屋、社務所

一、付近の史蹟 開化天皇陵、率川神社、伝香寺

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<饅頭の祖神及び菓祖神のやしろ 林神社>

奈良市漢國町、漢國神社の境内に鎮座の林神社は、
わが国へ初めて饅頭を伝えた林浄因命を斎きまつっております。
祭神、林浄因命は中国浙江省西湖の人、林和靖の末裔で、
嘉元年間に京都建仁寺三十五世龍山禅師が入宋された際、
師弟の契を結び、貞和五年禅師に随従して来朝された方です。

その後、奈良に居を構え、故国で習い覚えた饅頭を作られました。
中国には肉饅頭、菜饅頭、餡饅頭などがありましたが、
わが国で餡の入ったものの創始であります。

奈良の人々には、初めて口にするこのおいしい饅頭が人気を呼んで店頭には
市をなす盛況で、日に増して繁栄しました。この店は漢國神社々頭、林小路にありました。

その後龍山禅師に師の礼を尽くし度々機嫌を伺うため上洛し、その度に謹製の饅頭を携える事を
忘れませんでしたが、たまたま足利将軍に之を差出し、将軍もこれを賞味して非常に喜び、
将軍家を経て宮中に献上する光栄を得ました。

帝は殊の外の叡感で、官女を賜いて配せしめ給いました。また足利義政公より直筆の
「日本第一番本饅頭所」の看板を許され一門は光栄に輝きました。

その後林家は京都烏丸三条の北家と、奈良林小路の南家に分れ、
共に饅頭屋として繁昌しました。以後、代々、塩瀬を家号とし、江戸に移っては将軍家の御用をつとめ、
明治初年より宮内省御用となり始祖以来連綿と栄えておられるのが東京の塩瀬総本家であります。

室町末期から桃山初期にかけて、この饅頭屋、林家から碩学の林宗二が出ております。
初期の国語辞書である「饅頭屋本節用集」はこの人の著わしたもので、宗二は別号を方生斎といい、
節用集の他に数多くの抄物の筆録者として有名です。

宗二にはこの外、奈良伝授があります。これは古今集の奥義を口伝されるもので、
堺伝授、奈良伝授と共にこの道に志のある人々の関心の深いところで、
牡丹花肖柏から之を授けられました。

林神社はわが国で唯一つの饅頭のやしろです。
全国菓業の皆様、祖神の御遺徳をお偲びになると共に、
厚く御崇敬あって御家業の繁栄を御祈願あらん事を切望いたします。
毎年、四月十九日に例大祭を執行いたしております。御来寧の節は是非とも御参拝を願い上げます。
昭和五十三年九月二十日、社前拡張を機として、紀州の橘本神社より御神影を賜り、
菓祖神田道間守命を合祀致しました。
これで、饅頭・菓子の祖神の社として弘く仰がれることになった次第であります。
なお、特記すべきは、林家の饅頭屋本の発行に因み、印刷・出版の功業を賛えるべく、
昭和五十一年より顕彰会が興り、
全国印刷月間中の九月十五日に顕彰祭を営み、文運隆昌を祈願しています。
今や、万菓・万書の神として崇敬篤いものがあります。

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「奈良饅頭」

ふかふかと立ち昇る甑の湯気の中から取出す、あの旨そうな饅頭も大昔からあったものではなく、
鎌倉時代禅僧達が中国から伝えた生活様式の一つである「点心」に始まるといいます。
点心とは疲れた時お菓子を喰べる事で、おやつにあたります。
その頃奈良で、中国から帰化した林浄因という青年僧が、故国で習い覚えた
麪(こむぎのこ)で餡を包んだ蒸物を作り、
これに「饅頭」と名づけて売出しました。これが吾が国の饅頭の始まりといわれます。
この饅頭は当時の人々の嗜好にかない、奈良饅頭の名をほしいままにし、
全国津々浦々に伝わり、行きわたり、今日いかなる僻地にも饅頭店の見ぬ所はありません。
中国では古くから、祠祭に用い、また宴席に出す曼頭があったようです。

曼は餡を覆ふの義に出で、頭は宴席などの最初に出すの名なるべし説文長箋
肉を麺に包んで之を蒸す。これ曼頭なり  初学記

このように古くから曼頭の名があり、曼は最高、最も優れた意で、頭は最初、最上とか
第一とかをいい表わします。
わが国でも「蜘蛛の糸巻」という書物に、天明時代の江戸風俗を述べた条に、
「饅頭、羊羹、煎餅の類を最上とす云々」と饅頭を諸菓の最上に置いてあります。